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第九話 薔薇と夢

Author: 安井優
last update publish date: 2026-09-15 21:00:24

 昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。

 小雨の降る朝、私は熱を出した。

 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。

 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。

「これじゃ、本も読めないわね」

 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。

 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。

 ――私は、夢を見た。

 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。

 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。

「見て。雪みたいだよ」

「雪?」

「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」

「うん!」

 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。

 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。

 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。

 梔子の香りと、彼と分け合うあんこ玉の甘み。胸いっぱいに幸福が満ちていく。

 このまま、ずっと一緒にいられますように。

 私はなぜか、泣きそうな気持ちでその幸せを祈っている。

 けれど、祈りは届かない。

「キャアッ!」

 いつしか空を雨雲が覆い始め、突風が縁側に吹きつけた。雨に打たれ、枯れ果てた梔子の花が地面に落ちていく。

 合わせて、どこからか陶器の割れるような音が響く。それを合図に、私は頬に鈍い痛みを感じるのだ。

 ――痛い。

 誰かにぶたれている。なのに、私をぶつ相手の顔もよく見えない。はっきりとした輪郭を持つのは、口内に広がる鉄の味だ。

 私は少年から引き離される。拒絶しても、逃げても無駄だ。そのまま体を引きずられるようにして、暗くて湿っぽい倉庫へ閉じ込められる。

「嫌だ! 助けて! 助けて――」

 私は自らの声で寝台から飛び起きた。

「あ……」

 頬を伝うのは、汗か涙か。わからぬまま、私はそれを慌てて拭き取る。

 幼い頃から、時々見る夢だ。内容はいつだって同じ。彼とはもう二度と会えないような寂寞が胸に押し寄せてきて、私は咳き込んだ。

 と、短く戸を叩く音と共に扉が開かれる。

「お嬢さま! 大丈夫ですか?」

 慌てた様子で部屋へ飛び込んで来たのは先生だった。昨日見た洋装が幻だったとでも言うように、先生はいつもの地味な和装姿だ。黒の羽織がはためき、梔子の香りがする。先の夢に相まって、私は再び涙がこぼれそうになった。

 先生に見られてしまわぬよう、毛布で拭う。

 ギシリと寝台が揺れ、背中に温かくて大きな手が触れる。咳き込む私を落ち着かせるように、その手が背中を数度往復した。

 咳が落ち着き、毛布から顔を出すと、先生が心配そうにこちらを見つめていた。

「熱を出されたと聞いて、お見舞いに。僕のせいで申し訳ありません」

「先生のせいじゃないわ」

 謝らないでと言いたかったのに、声がうまく出ない。先生から水を差し出され、私はそれを一気に飲み干す。喉が渇いていた。

 時計に目をやると、すでに時刻は昼を回っている。

「どうして、先生がここに?」

 空いたグラスに水を注いでいた先生の眉が下がった。

「実は、ご無理をさせてしまったのではないかと思いまして。ちょうど近くに寄る用事があったものですから、少しお伺いしたんです」

「そう、だったの」

 先生は、なんでもお見通しなのね。

 私がささやくと、先生は窓の外へ目を向ける。

「お嬢さまが、わかりやすいんですよ」

 先生の声もいやに静かだった。

 窓にぶつかった雨が細い水滴となって落ちていく。

 不意に、少年の言葉を思い出した。夢の中と同じで、現実の私も雪を見たことがない。

「……雪も、あんな風に降るのかしら」

「え?」

「夢を見たの」

「夢の中で、雪が?」

「そういう、わけじゃなくて」

 話が長くなると思ったのか、先生は寝台から腰を上げ、「失礼しても?」と私の机から椅子を引き出した。首を縦に振ると、先生は椅子を寝台の横に置いて腰かける。どうやら、話を聞いてくれるらしい。

「私ね、昔から時々、同じ夢を見るの」

「それは珍しいですね」

「珍しいの?」

「あまり聞いたことがありません」

「先生は?」

「僕も経験はありませんよ。それで? その夢というのは?」

 脱線しそうになった話を先生が戻す。発熱で頭がぼんやりとしていて、意識が散漫になっている。考えをまとめられていないことを自覚して、私は先ほど見た夢の内容に意識を集中した。

「梔子の花が、咲いていて」

 先生の視線が、再び窓の外へ向けられる。ちょうど、私の部屋からも家の庭に植えられている梔子が見える。

「男の子とね、お菓子を食べてるの」

「お知り合いですか?」

「顔は、いつも、よく見えなくて……。でも、懐かしい感じがするから、知り合いなのかもしれないわ」

 私はまた話がそれてしまいそうだと慌てて夢を手繰り寄せる。

「それでね、梔子の花びらが風に揺れて……、その男の子が言うの。雪みたいだって」

 白くて、綺麗で、冷たい氷の雨。いつか一緒に見たいねと少年はそう言っていた。彼もまた、雪を知らないで育ったのだろう。

「一緒に見ようって約束するんだけど……、でも……雷雨と、大人が私たちを引き裂いてしまうの」

 口にするとなぜか体が震えた。熱のせいで寒気が襲ってきているのかもしれなかった。

「それで、夢はおしまい」

 断ち切るためにわざと軽んじる。

 待てど暮らせど、先生からの反応はなかった。てっきり、なにかしらの返答があるものだと思っていた。

 不自然な間に、先生の様子を窺う。先生は俯いていた。膝の上で組まれた両手を見つめているみたいだった。少し長い前髪が先生の表情を隠している。

「……先生?」

 呼びかけると、先生がノロノロと顔を上げる。

「……なぜ……を?」

「え?」

 先生の声も、私の声と同じように掠れていた。もしかして、風邪が移ってしまった? 心なしか、先生の顔色もあまり良くはないように見える。

 先生の質問が聞き取れなかった私は、寝台の上で先生を凝視する。だが、先生はそこで言葉を切ったきり、口を固く閉じてしまった。

 ややあって、先生は静かに立ち上がり、椅子を元あった場所に戻して礼をする。

「……体調のすぐれないところ、長々とお邪魔してしまいました。今日は失礼いたします」

 取ってつけたような挨拶だった。

 先生のほうが、よほど体調がすぐれないように見える。

 ――どうして、急に?

 私はただ、先生を引き止めることもできずにその背を見送った。黒い羽織が扉の向こうに消え、漂っていた梔子の香りは外から流れ込んできた雨の匂いに上書きされてしまう。

 いつの間にか、窓を叩く雨音が強くなっていた。

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